SOSの猿を読んでみて思ったこととか
ブクログにちょいちょいレビュー的なものをつけて、読んだ本の整理をしてるけど、レビュー?を超えて自分の考えとかを書いてみようと思います。
※『SOSの猿』について多少?ネタバレしてます※
最近どんどん名前が売れてきた伊坂幸太郎さんの作品『SOSの猿』は、
前作の『あるキング』が個人的に(他の人も?)不発、
というか実験的すぎで、“伊坂哲学”的要素も少なかった、というイメージを一転させ、
独自の抜群の構成力を発揮しつつも革新的な手法をとりいれ、警句的なエッセンスも欠かさない、
読んでいて興味を惹かれる内容の小説となっていたような気がします。
確かに、初期の頃の作品(※オーデュボンは除く)とは違い、
一気に駆け抜けていくような展開や、読んだ後の爽快感は少ないものとなってるとは思いますが、
そのぶん、伊坂さんの社会や人間関係に関する思想、人生観が、端々に散りばめられているように感じます。
誰かの役に立ちたいと思う一方で、なにもしてあげられない自分にくよくよし、
またそう思うのはメサイアコンプレックス(存在価値を証明したいというもの)によるもので、
その考えを改める必要がある、
と内省する主人公の姿には誰しもが共感できるのではないかと思います。
ストーリーの背後に横たわる思想に関しては、
○人は“良い”“悪い”の二元論では語れない存在であるということ
○そもそもの原因をさかのぼっていくと一概には何が正しいのか判断が難しいということ
○原始時代からの人類に共通する意識(イデア論的な?)が存在するということ
○物語によって救われるということ
○くよくよ悩むより、見かけだけでも楽しく生きた方が得だということ(不惑)
○暴力にこれといった理由(良いも悪いも)はないということ(あくまで原始的)
・・・などがあるように感じました。
抽象的すぎてこれだけ見ても伝わりにくいですが、
本作品のなかでそれらについて、とても上手く語られているので、その点においても一読する価値があると思います。
また、ゲリラ合唱とか、お笑いコンビ「孔子孟子」(ツッコミの台詞が「不惑じゃないんだから!」)のように
実際にあったら面白そうなユーモア溢れる発想や、
「悪魔祓い」という非現代的なものと、現代における社会問題である「ひきこもり」のカウンセリングとの類似性を述べ、
さらに、“悪魔に憑かれる”“魔が差す”などのような第3者(霊的な力)の存在を、
自己の非倫理的な行為の根拠にすることによって、その人(あるいはその人を面倒みる人)が
いかに気が楽になるのかということを論じている点などにおいては、
さすが伊坂幸太郎!と言わざるを得ないように思います。
1)計算されつくした構成
2)機知に富み読者を飽きさせない文章
3)そこに横たわる現実への思想と描写
これらがさらりと盛り込まれた作品を世に輩出する伊坂さんを本当に尊敬します。
『SOSの猿』を読んで少し物足りなく感じたのは、作品にどっぷりはまりこむことによって生まれる疾走感が得られなかったことです。
取り扱っている内容、主題のせいもあるだろうけど、読者を小説の中にしっかりと惹きこみつつも、
上記にあげたような3つのことが同時に達成された作品が今後誕生することを期待したく思います!
※散々偉そうなこと書いてすみません。感じたことを思うがままに書き連ねました。自分なりの解釈なので間違いだらけかもしれません。なにかあれば指摘して頂けると幸いです。