メンデルスゾーン

みなさん。フェリックス・メンデルスゾーンをご存知だろうか?

ロマン派の作曲家。代表作バイオリン協奏曲?

正直僕はあんまり知らない。

名前は聞いたことある、代表作も多少知っている、、、程度の知識。

そんな状態で12月13日にあるピアノ演奏会(サークル:ピアノの会)で、メンデルスゾーンの曲を演奏しようとしている。

曲名は『ロンド・カプリチオーソ』

中学2年の頃に発表会でブラームスのラプソディー1番を弾くか、この曲を弾くかで悩んだ挙句、ブラームスを選んだという経緯がある。

当時は楽に派手な演奏効果を得ることを重視していたように思う。多分。

そのため?ブラームスのラプソディー1番を選んだ。(※2番もあるけど演奏効果が低いため選択肢になかったわけで。)

かれこれ7年(!)経ってロンド・カプリチオーソに挑戦する時が訪れた。

今まで何回かピアノ演奏会を経験してきたけれど、今回は本気で取り組もうと思う。

なので作曲者と曲についての背景を調べてみる。





以下wikiより引用(笑)+α





ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ
Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy
1809年2月3日 ハンブルク - 1847年11月4日
ドイツロマン派の作曲家、指揮者。



生涯

1809年2月3日、ハンブルクにて富裕な銀行家アブラハムメンデルスゾーンとレア・ザロモンの息子として生まれる。
祖父モーゼス・メンデルスゾーンは、カントにも影響を残した有名なユダヤ人の哲学者であった。
フェリックスの家族は、アブラハムの代でプロテスタントのルーテル派に改宗する。
アブラハムはまず子供達を1816年に改宗させ(この時、フェリックスは7歳)、自らと妻レアは6年後の1822年に改宗した。
父はこれを記念して「メンデルスゾーン・バルトルディ」と改姓したが、フェリックスは「バルトルディ」を使いたがらなかったという。

メンデルスゾーン家は1812年以降ベルリンに居を構えるが、フェリックスも含めてユダヤ人としていわれなき迫害を受けることが多く、それは改宗後も大して変わらなかった。
にも関わらず、フェリックスの業績・影響力は極めて強く、終生ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けた。

姉のファニー・メンデルスゾーン(結婚後、ファニー・ヘンゼル)は、彼女自身有名なピアニストであり、女性作曲家の先駆者でもあったが、迫害を矢面に受けて気難しくなっていく弟フェリックスの何よりの心の友、良き理解者、良き導き手であった点が特筆される。
妹のレベッカは数学者のペーター・グスタフ・ディリクレと結婚した。

メンデルスゾーンは、文豪ゲーテロベルト・シューマンとも、親友、良き理解者の間柄である。

1847年11月4日、かねてから体調が思わしくなく、クモ膜下出血と思われる症状で急逝した。
最期の言葉は「疲れたよ、ひどく疲れた」(Ich bin m〓de, schrecklich m〓de.)であった。



人物・業績

一度見た楽譜や一度聞いた音楽を完璧に記憶する記憶能力を有していたという。
伝わっている逸話の1つとして、代表作の1つである『夏の夜の夢』序曲の楽譜を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せた、というものが残っている。
後に元の楽譜が発見されるが、書き直した楽譜と元の楽譜は7箇所が異なるだけで、あとは完璧に同じだったと言う(その7箇所も間違えたのではなく、メンデルスゾーン本人が意図して直したものではないかと言われている)。

多数の言語を自在に操り、青年になる頃にはドイツ語のみならず、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語までも話していた。音楽のみならず詩や絵(水彩画)にも興味を持ち、いくつかの作品を残している。
特に水彩画に関しては趣味として楽しんでいたが、本職の画家顔負けの実力を持っていた。

作曲以外の彼の最も重要な業績はまず、それまで独立していなかった指揮者という職務を独立させ、自らも極めて有能な指揮者として率先して範を示し、弟子たちに指揮法を教え、現在にまで至る指揮法を確立した創始者であるという点である。

同様に重要な業績として、その当時すでに忘れ去られていた大バッハの楽譜を自ら発掘してその価値を見抜き、同様に演奏困難などの理由で早くも忘れられつつあったベートーヴェンの作品をこよなく愛し、彼らの作品を好んで積極的にパイプオルガン、ピアノないしオーケストラの曲目として取り上げ続け、貴族にも大衆にも大バッハベートーヴェンの価値を広く知らしめた点が挙げられる。
また、友人のシューマンが発見したシューベルトの遺作、交響曲ハ長調D944(第8番『ザ・グレート』)を初演した。

さらに、自らがオルガニスト、ピアニストあるいは指揮者となり、それまで古い楽曲を演奏する習慣のなかった音楽界に、古くても価値ある作品を敬意を払って演奏するという音楽作法を確立し、ピアニストやオーケストラの演奏活動を大いに盛んにしたことも、メンデルスゾーンの大きな功績と言える。



J.S.バッハシューベルトの復興

メンデルスゾーンの作品は、バロック様式、初期古典派音楽の研究の成果を示している。彼のフーガとコラールは、特にJ.S.バッハの対位法の影響を反映する。
彼の大叔母は、大バッハの息子のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの弟子であり、カール・フィリップエマヌエル・バッハの未亡人には経済的援助を行った。この大叔母は多くのバッハの自筆譜を蒐集していた。
またメンデルスゾーンの音楽の先生のツェルターは、19世紀にはそれほど知られていなかったJ.S.バッハとその音楽を、深く尊敬していた。

1829年メンデルスゾーンは、友人らの助けを得て、バッハのマタイ受難曲のベルリン公演を実現させた。オーケストラと聖歌隊は、ベルリン声楽アカデミーのメンバーが出演し、ツェルターが指揮者を務めた。
1750年のバッハの死以来、最初のマタイ受難曲演奏の成功は、全ヨーロッパにおけるバッハ復興につながる重要な事件であった。
それは、20歳のメンデルスゾーンの名声を高めた。また当時「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評された。
メンデルスゾーン自身もルーテル派であり、バッハの作品を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と見なしていた。

メンデルスゾーンは、またフランツ・シューベルトの音楽も復興させた。
シューマンは発見したシューベルトの第8(9)交響曲の楽譜をメンデルスゾーンに送り、この曲は作曲者の死から10年以上経った1839年3月21日、メンデルスゾーンによりライプチヒで初演された。





『ロンド・カプリチオーソ』
ロンドカプリチオーソ ホ長調 Op.14
Rondo Capriccioso in E Major, Op.14

wikiに乗ってない!
ということで急遽検索してみるも詳しい情報はあまり見つからず(笑)
本格的に調べる必要があるけど、まぁわかる範囲でまとめてみる。


1824年。メンデルスゾーンが15歳のときに書いた作品。
メンデルスゾーンのピアノ作品の中で最も有名な曲の1つである。
甘くのびやかなアンダンテの序奏と軽快なプレストのロンドからなる。


当時のピアニスト(それも主にアマチュアの)が
好んで使っていたピアノテクをまとめたもの(らしい)。


作曲年ははっきりせず、1824年15歳の時の作品と考えられていたが、実際は1830年22歳の時の作品のよう。
     



感じたこととか…
メンデルスゾーンも薄命。宗教の被害者。

伝統(?)を大事にしてる。能力者。多才。

他の作曲家と比べていまいちパッとしない(=研究進んでない?)ため、自分なりの曲の解釈をする必要性が多くある。

序奏部分はロマン派らしく優雅に、ロンド部分は形式美を追求し軽快な演奏をすることで、メンデルスゾーンの生きた時代と彼が愛した時代のコントラストや並存を表現できるような演奏をしようと思う。

核心を突く、本来予想していたようなロンド・カプリチオーソが作られた背景を知ることは出来なかったけど、演奏するための方向性は見えてきた気がする。

作曲家から調べてたら著名な作家とか画家とかとの交友があったりしてなかなか面白い。

ショパンドラクロワの関係とか昔知った時は興奮した(謎

これからもそういう発見(?)を大事にしたいと思う。














※専門的に音楽を学んでいるわけではないのでここに書いてあることには全くといっていいほど信憑性はないので注意してくださいネ!